-学問と実務の架け橋を目指して-

2013年6月29日土曜日

【評】ネット選挙解禁

 721日に、参議院選挙の投開票が行われる。追い風の吹く自民党ないしは与党で、参議院全体議席の過半数が取れるか、いわゆる長らく続いたねじれ国会に終止符を打てるかが注目される。しかし、今回の選挙の注目点は、結果だけではない。日本において、ネットを使った初めての選挙で何が起きるかも注目される。
 今までは、政党や候補者による選挙期間中(公示日から投票日前日まで)のネットを使った広報活動が、公職選挙法によって禁止されていた。電子メールを使って有権者に投票を呼びかけることやブログを更新することなどが禁止されていた。これらのことが、今回の選挙から解禁されるわけである。ただ、ネットによる投票ができるようになるのではないので、勘違いしてはいけない。本来であれば、ネット選挙とはネットによる投票をも意味していたはずだが、いつの日からか意味が矮小化されてしまった。(ここで、ネットによる投票を解禁すべきだと、主張するわけではないのだが)
 今回解禁されるネットにおける広報活動が、今まで規制されていたことは、不自然であった。有権者が政党や候補者の情報を得るためのコストを考えると、ネットの優位性は高い。有権者はネットを使えば、簡単に情報を得られるし、政党や候補者にとっても、情報を発信しやすい。この情報の共有力の点で、ネット選挙解禁のメリットは大きいはずである。
 しかし、ネット選挙が解禁になれば、このメリットが完全な形で機能するとは考えにくい。私たちは、あらゆるメディアから情報を入手しているが、その接触するメディアはそもそも私たちが選択している。私たちは初めから態度や意見を持っており、選択的にメディアに接触するわけである。これは、ネット選挙における、有権者の政党・候補者の情報に対する接触でも起きる可能性がある。自民党支持者なら、自民党や当政党の候補者のTwitterはフォローするかもしれないし、ブログも見るかもしれない。しかし、その他の政党や候補者のTwitterやブログを見るかと言われれば、あまり見ないのではないか。よって、政党支持者には今までの態度や意見の強化にだけ効果が出る。票の移動ではなく、固定化が一層起こる。ネットの情報共有力は限定的なものとなる。
 ただ、無党派層にはどうだろう。無党派の人たちは、一様に政治的に無関心であるかのようにいわれるが、決してそうではない。積極的に無党派となっている有権者が多く存在する。そのような積極的無党派層を動かすことはできるかもしれない。彼らは、政治的関心はあるので、情報に接触してくる可能性がある。しかも、政党支持による選択的接触が起こらない。ここにネットが選挙を動かす可能性が存在する。
 ネット選挙が解禁されて、初めての国政選挙。いろんな仮説は考えられるが、実際どうなるかはわからない。選挙後の検証を楽しみにしておこう。


2013年4月6日土曜日

【評】英語教育改革


 新学習指導要領により、今年から高校で行われる英語の授業は「英語で行うことを基本とする」ことになる。従来の授業は、日本語を基本としていたため、生徒の文法や読解の能力は向上できるが、リスニングやスピーキングの力は伸ばしづらかった。英語を基本とすることで、日本でよく揶揄される「受験英語」を打破しようとの試みである。
 日本人が英語を苦手とする理由は、英語教育で解釈されやすいが、ではさらになぜこのような教育がまかり通っていたのかを考える。これには大きく2つの要因があるように思える。
 1つ目は、日本の場合、英語が使えなくてもある程度、学問ができてしまうからである。先人たちの業績により、欧米で発達した学問を輸入し、多くが日本語に翻訳されている。専門用語も作られ、日本語で学問を語ることができる。よって、日本語だけで大学を卒業できてしまう。そして、そのことは、大学が入試に英語のリスニングやスピーキング科目を導入するインセンティブを小さくしている。
 2つ目は、日本には、多くの大企業があり、わざわざ外国の企業に就職しなくても豊かな生活を送れるからである。例えば、韓国では、近年、世界的に見ても大規模な企業が出現してきているが、日本と比べればまだ数が少ない。サムスン系列に就職出来ればよいが、パイが少ない。すると、外国企業に就職することも視野に入れ、英語の勉学に励むだろう。
 しかし、最近は日本の企業もグローバリゼーションの波に入り、英語の必要性が叫ばれるようになった。このことが、日本の教育改革にもつながっている。ただ、高校英語の改革についていえば、当該新学習指導要領だけでは、効果的な改革が行われるか甚だ疑問である。早くも「英語を基本」とする指針を守らないだろうという声が、高校教師から発せられている。
では、高校教育で実践的な英語教育がなされるためにはどうしたらよいか。高校の授業を受ける生徒は、大学入試を目指して勉強しているため、大学入試に実践的な英語の科目を導入することが一番効果的な改革となるのではないか。これは国というよりも、大学の役割である。今の社会が必要とするものに大学は答えなければならない。
国からの指針だけでは限界がある。教育内容を変更するだけでは十分ではない。改革をするときに、対象とする本人(生徒)の目的を鑑みないと、制度も機能しないし、効果的な改革は行えない。

2013年4月5日金曜日

【評】「期待」の効果



昨日の金融政策決定会合で、大規模な量的・質的金融緩和の導入が決定された。政策目標を政策金利からベースマネーに転換し、それを2年間で倍増させる。ベースマネーは、過去13年間で2倍になっていることを考えると、2年で2倍は、急激な伸びだということがわかる。また、国債買入に加え、ETFJ-REITのリスク資産も買い増す。中長期の借入金利を引き下げ、設備投資を促すことを意図している。
白川方明前総裁の時代は、マネーサプライを増やしても投資や消費に結びつかないとして、量的緩和政策に対して慎重な姿勢であった。黒田東彦総裁が、その方針を転換した。しかし、狭義の量的緩和もリスク資産購入も、効果があることの実証結果が乏しく、疑問を呈す人は多い。ただ、今回はなにかよくわからないが「期待」があるようである。このことは今までとは違う点かもしれない。実体経済の動きは未だ芳しくないにも関わらず、「期待」が株価を押し上げている。
人は「期待」で動くのだろうか。実体経済へ効果が波及するのだろうか。日本において、壮大な「実験」が始まった。経済停滞で苦しむ世界各国からも注目されているようである。未だにこの政策効果に関する説得的な学説が存在しないこと、またベースマネーがすでに高水準であることからすると、何も起こらず、ただ副作用だけ残るという不安もあるし、大規模な政策ゆえに、バブル到来の不安もよぎる。「実験」なだけに、一見、相対する2つの不安がつきまとう。

【雑談】歌舞伎とメディア



 建て替えた歌舞伎座のこけら落としがあったようで、メディアはこぞってそのことを報道している。でも、歌舞伎ってそんなにみなさんに身近なものなのでしょうか。興味の対象なのでしょうか。なにか、メディアと視聴者との乖離が見られるような気がするなーと。
 とか言いながら、いつかは見に行ってみたいなと思っちゃったり。ん?メディア報道のせいかな。
 ということを、たまたま新生歌舞伎座の前を通り過ぎながら思った。

2013年3月28日木曜日

語学



これからの一年間、英語を集中的に学ぶ

さらに、中国語も学び直す。

【学】政治学を学んでよかったこと



 私は経済学科であるが、合理的経済人の壁にぶつかり政治学科のゼミに入ったことは前に述べた。そのことで「実証」の重要性を考え、またその方法を身につけることができたことは大変有意義なことであった。政治学は、経済学よりも実証を大事にしている側面があるのである。
 政治学を学びよかったことはこれだけではない。政治学は、隣接学問領域が混在した学問であるといえる。経済学や心理学よりも発展が遅かったからか、それらの学問の知見を多く導入しながら発展してきた。よって、政治学を学ぶことは、経済学や心理学、社会学をも学ばなければならない。そして、学際的な性格のある政治学は、各ディスプリンを統合できるような方法論を模索している。人工的な区切りを超えた視点を、政治学の方法論は持っているのである。
 この政治学を学ぶことで、私は広い視点を手に入れることができた。具体的には、投票行動を研究することで、必然的に社会心理学と経済学、社会学を学ぶことになった。そして、それらを混合したアプローチで研究した。
社会現象を考えるときに、各学問だけの閉鎖的な視点で考えるのではなく、柔軟で広い視点を持つようになったことは、政治学を学んだゆえであろう。

2013年3月21日木曜日

【学】政治経済学を考える


 私は、今春に政治経済学部を卒業する。大変有意義な4年間であった。培ってきたものを進学先で活かしていきたい。そこで、改めて「政治経済学」について考えてみたい。この学問はその名の通り、「政治学と経済学のインターフェイスを探る領域」であるといえる。経済を語るときに政治を無視することはできない。逆に、政治現象を語るときに経済学なしでは不完全だろう。政治学、経済学という人為的な区別を乗り越えて、社会現象を研究しようとする試みである。
 ただし、政治学と経済学の単なる学際的融合を目指しているわけではない。政治学的な垂直のアプローチ(力や権威による価値配分)と経済学的な水平のアプローチ(誰にとっても平等な取引)という思考の枠組み自体を組み替えることが重要なのである。その次元を達成してこそ、政治現象ないしは経済現象をより一般的に分析できるようになる。
 私は、経済学科であるが、政治学のゼミに所属していた。曲がりなりにも、政治学と経済学を学んでいる。政治経済学へのアプローチはまだ不十分であるが、土台は作れたかと思う。卒業してもなお、政治経済学を学び続けたい。

2013年3月20日水曜日

【映】レ・ミゼラブル


 「好きな映画は何ですか」と聞かれたら、『サウンド・オブ・ミュージック』と『雨に唄えば』という往年のミュージカル映画を答えている。特にミュージカル映画が好きだという意識はないのだが、この2つはおすすめである。今回、鑑賞した『レ・ミゼラブル』も、ミュージカル映画である。しかし、先ほどの2つとは異なる箇所がある。それは、全編においてミュージカル調の台詞回しであることだ。数十年の長い月日のストーリーを、ミュージカル調で過ぎていく、大変挑戦的な映画であった。
 それゆえ、映画鑑賞前は、退屈にならないか不安であった。しかし、2時間半はあっというまに過ぎた。ミュージカル調のセリフに嫌気が差さなかった。これはなぜか。答えは、キャストの演技そして演出が卓越しており、それに魅了され続けたからだ。私は、映画サークルに入った動機が脚本を書きたかったことからもわかるように、映画のストーリー性を重視して楽しむ傾向にあるのだが、今回はストーリーよりも演技、演出に引きつけられた。普段とは異なる見方が、私に時間を忘れさせた。
 ミュージカル映画とは、普段見る映画とは明らかに異なる。それが私に新鮮な刺激を与え、映画の新たな可能性を知らせてくれる。これが、「好きな映画は何ですか」の答えを私に与えてくれているのかもしれない。

2013年3月19日火曜日

【映】バック・トゥ・ザ・フューチャーとE.T.

 私は、大学12年のとき、映画サークルに入っていた。監督として2本の短編映画を撮った。30分の映画を作るのでさえ、かなり大変だった。この大変な経験をしたことで、映画の重みを感じるようになった。かつては、「エンドロールってなんて退屈なものなんだろう」と思っていたが、今ではここに大変さが感じられて感動さえするほどである。
 しかし、どんなに大変だったとしても映画の内容がおもしろくなかったらどうしようもない。お客には、映画製作の大変さは関係ない。ほとんどのお客は楽しく見るために映画館に足を運んでいる。
 これは映画サークルにいたからかもしれないが、映画には芸術性があるものがよく、エンターテイメント性を重視したものは薄っぺらいという風潮がないであろうか。私は、そんな空気を感じ、疑問に思い、エンターテイメント性を重視して映画の制作をした。(人に見せられるような代物ではないが。) もちろん、エンターテイメント性を重視するだけで「よい」映画になるわけではないが、「よい」映画はエンターテイメント性を含んでいる。「よい」かどうかは、お客が決めるものであり、そのお客の大半は楽しむために鑑賞しているからである。
 この理論からすると、スティーブン・スピルバーグ監督の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『E.T.』は、とても「よい」映画だった。SFとは、人間の想像のお話であり、想像とはエンターテイメントなものである。もし、時間を行き来できたら・・・。もし、宇宙人と会えたら・・・。この2つのエンターテイメント作品は、時代を越えて多くの人が楽しんでいることで、「よい」映画であることが保証されている。きっと今後見たあなたもこう言うだろう、「よかった」と。



2013年3月17日日曜日

【学】社会科学が「科学」であるには


 社会科学は、(多少なりとも)複雑だと認識される社会を対象とする。そのなかで、社会科学者が(最終的には)目標とする理論・モデル構築を行うために、一定のルールが必要となる。研究設計の基本部分が、共有されず、科学者によってバラバラだと学問の知的体系を構築することはできない。このことの重要性を鑑みれば、次のようにいっても過言でない。「科学」の中身は、主として方法とルールであって、研究の内容・主題でない。科学的な方法とルールに則れば、あらゆる内容であっても「科学」となりうるのである。となれば、私たち社会科学をするものは、研究が「科学」であるために、方法とルールを学ぶことが重要であり、最低限すべきこととなる。
 G.KingR.O.keohaneS.Verbaによる『DESIGNING SOCIAL INQUIRY : Scientific Inference in Qualitative Research(1994) は、社会科学における研究設計のルールを学ぶための必読書である。勁草書房より訳本がでている。真渕勝監訳『社会科学のリサーチ・デザイン-定性的研究における科学的推論』(2004)。これを読み返し、参考にしながら、今後、社会科学が「科学」であるための方法とルールを改めて考え、それに関する記事を不定期で掲載していこうと思う。

2013年3月6日水曜日

【学】確証バイアス


 A型は几帳面。B型はおおざっぱ。私たちは、血液型を性格に結びつける。もちろん、血液型と性格に統計上有意な関係はない。しかし、血液型性格関連説の本は売れ続けている。
 血液型と性格が関連しているという科学的証拠がないのに、人々はそれを信じる傾向にあるのは、確証バイアス(confirmation bias)を考えると説明がつく。確証バイアスとは、仮説の真偽を確かめようとするとき、人々は確証情報に注目し、反証情報に注目しない傾向のことである。このメカニズムは、記憶過程、仮説検証過程、解釈過程を詳しくみることにより明らかにすることができる。
 Cohen1981)の実験では、実験参加者に、ある女性が誕生日を祝ってもらっているビデオを見せた。事前に、実験参加者の半分には、ある女性が図書館司書であると伝え、残り半分の実験参加者には、ウェイトレスだと伝えている。ビデオを見たあと、ビデオに映っていたものと映っていなかったもののリストを見せて、映っていたものを答えるように指示した。すると、事前に伝えていたある女性のイメージと合致したリストを答える傾向にあった。イメージに一致したものをよく覚えていたのである。血液型の場合にも、血液型性格関連説を支持する事実のみを記憶しがちだと考えられる。そして仮説が支持されたと思ってしまうのである。
 また、肯定的検証方略(positive test strategy)という仮説検定の方法がある。これは、ある仮説を肯定される回答が得られるように質問することである。「あなたは社交的ですか」という質問に対し、社交的でない人が否定できたら問題ないが、誰もが外交的な部分と内向的な部分を併せ持っているため、回答者は質問を肯定する部分を探して、その要素を見つけ肯定してしまう。よって、肯定的検証方略は、回答者の肯定的回答が得られやすく、仮説が誤って検証されてしまう可能性がある。血液型でいえば、A型の人には、「きれい好きですか」と質問してしまい、バイアスがかかった回答が得られてしまう。
 仮説によって、観察される人物の行動の解釈に影響を受けることもバイアスを生む。Kelley(1950)の実験では、ある講義で代行の講師を用意し、その受講者にはあらかじめその講師のプロフィールを渡した。プロフィールの半分には、講師の性格が「温かい」と書き、残り半分には「冷たい」と書いた。講義終了後のアンケートでは、「温かい」のプロフィールを受け取った学生の方が、「冷たい」の学生より講師を好ましく評価した。事前に設定した、この講師は「温かいだろう」「冷たいだろう」という仮説が、講師の行動の解釈に影響を与えたのである。
 このようなメカニズムにより確証バイアスが起こり、血液型性格関連説は支持されていると人々は思う。確証バイアスは、この他に占いなど、社会のいたるところで見受けられる。確証バイアスは、抑制することが難しい。このことは、私たちが日頃行う研究への助言となる。反証情報を十分に吟味することが大事なのである。


文献目録

CohenC.E. (1981). Person categories and social perception : Testing some boundaries of the processing effect of prior knowledge. Journal of Personality and Social Psychology.40, 441-452.
Kelley.H.H. (1950). The warm-cold variable in first impression of persons. Journal of Personality.18, 431-439.
池田謙一他. (2010). 社会心理学. 有斐閣.

2013年3月3日日曜日

【学】合理性への疑問

 私は、経済学科の学部生である。しかし、所属しているゼミは政治学科である。志望通りにならなかったのではない。第1希望のゼミに入った。ではなぜ、経済学科ではなく政治学科なのか。これには多くの要因があったのだが、1つの主要な要因は経済学への疑問であった。
 社会科学の学問は、理論を構築することと実証することを大きな仕事として持っている。(もちろん、データ収集して、記述的な分析をすることも大事だが。)理論構築だけ行なっても、現実を無視した自己満足なものになってしまうし、実証だけではより一般化した精密な理論は生まれない。理論と実証を繰り返し行うことで、理論が発展していく。
 経済学も、この2つの面を持っている。しかし、理論構築にやや重点が偏っているように思える。演繹的に理論の精度を高めるばかりで、現実に対応しているのかと疑問に思ったのである。さらに、経済学は常に新規更新していく学問であるのだが、教科書に載る理論は古いままである。これでは、私のように現実の応用可能性に疑問を持つ学生が増えることは容易に想像できる。
 また、経済学が理論構築を行う際に出発地点としておく仮定が、受け入れられなかったこともある。ほとんどの経済学は、合理的経済人という人間観のもと期待効用理論を仮定している。ほとんどの理論がこれを土台としている。しかし、現実世界において人間が合理的に行動しているとは思えなかった。情報の不完全性があることや人間の心理は合理性とは異なる動機があることにより、意思決定を合理性で語ることは欠如があるように思えた。もちろん、マクロのアベレージでみればある程度説得力が出るかもしれないが、私にはこの仮定が「あきらめ」のように思えた。そして、理論の現実への対応関係を決定的に欠如させているように思えた。
 このような経済学の現実との乖離を感じ、政治学ゼミに入り実証研究に従事したわけだが、最近再び経済学への意欲がわかせてくれる出会いがあった。ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』との出会いである。カーネマンは、意思決定がしばしば不合理であるとし、期待効用理論を批判する。そして、今では経済学に多く応用されるプロスペクト理論を提示した。この不合理性を想定した理論は私の中で画期的であり、経済学への可能性を感じさせてくれるものであった。プロスペクト理論から発達した行動経済学は、私の経済学に対する意欲をもたらしてくれた。
 このようにして、私は経済学の勉学をやり直している。今回は、意思決定の不合理性を経済学に導入できると確信しているからこそ、以前は受け入れられなかった仮定もいったん飲んで勉学を進めることができる。政治学のゼミで培った実証分析の方法を応用できることも知っている。経済学を現実に対応させることができることを知っているのである。