-学問と実務の架け橋を目指して-

2012年7月1日日曜日

【評】個人レベルと集計レベル

 私は大学のゼミで、有権者の投票行動についての研究をしている。投票行動は何によって規定されているのかを、実証によって発見するのだが、あくまでも研究対象の単位は有権者だ。いわゆる、個人レベル(Individual-level)データのサーベイリサーチとなる。個々の有権者が起こす行動にスポットライトを当てる。
 それに対して、集計レベル(aggregate-level)での調査もある。例えば、都道府県ごとにデータを集計して投票行動を考えるとすると、集計レベルでの研究となる。私は、他大学との合同ゼミで、集計レベルでの調査をプレゼンしたことがあったのだが、他大学の教授から「集計レベルでの調査を行ったところで何の意味があるのか」と噛みつかれたことがあった。集計レベルで結果が出てもそれには意味がなく、また、その結果は個人レベルでの結果には関係がないので、個人レベルの調査をすべきだ、ということだ。
 集計レベルの調査によって、個人レベルの解釈をすることはできない。これは1950年に社会学者のW.S.Robinsonが生態学的誤謬(Ecological fallacy)という概念により説明している。(内容を知りたい方は各自調べてください。)
 ただ、集計レベルの結果が全く意味が無いというのには当時納得がいかなかった。感覚的には集計レベルの調査が無意味とは思えないのだ。まだそれを論証するまでには至らないが、1983年に政治学者G.Kramerindividualistic fallacy を提示し、個人レベルでの問題を指摘していることからも、集計レベルにも意義がありそうだ。
 個人レベルでの研究と集計レベルでの研究。この2大潮流の論争は絶えない。ただ言えることは、社会科学を学ぶ学生はこの問題と対峙すべきだ。この個人レベル、集計レベルの概念を知り、自分なりの考えを持つことは学生にとって不可欠なことだろう。

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