-学問と実務の架け橋を目指して-

2012年7月18日水曜日

【評】 「文化」という根拠

 日本は調査捕鯨を行なっている。それに対し、国際的な環境団体「グリーンピース」や「シーシェパード」が異を唱えている。彼らの反対活動が、暴力的に行なわれ、ニュースでたびたび取り扱われる。国際捕鯨委員会(IWC)では、捕鯨に関するルールを設定するため、議論が行われる。捕鯨を全面的に禁止すべきという意見と、それに反対する意見で対立する。この記事では、捕鯨賛成・反対の意見についての評論はしない。今回問いたいのは、捕鯨の議論でよく目にする「文化」についてだ。意見を主張するとき、「文化」を根拠にすることには、論点が含まれている。
 文化は大切にすべきものだ。これに異論はないし、その通りだ。ただ、文化だけを根拠に意見を主張することはできない。「鯨を食べるのは文化だから、捕鯨禁止なんてできない。」これだけが捕鯨賛成の理由であるなら、これは理由にならない。もし、文化だけを根拠に、人を説得できるのであれば、なにに対しても「それは文化だから」と、言えばすむことになる。それが文化かどうかを定めることは難しいし、文化なんて大事ではないとは言えないので、誰も反論できなくなる。文化は、魔法の盾となる。
 根拠に文化を使うことは避けるべきだ。捕鯨賛成の根拠を、文化以外に求めなければならない。反対派の根拠の信憑性を問うなど、捕鯨正当化を見出す糸口は他にもあるだろう。文化を魔法の盾のごとく使っても、それには意味が無い。
 哲学者カール・ポパーは、反証可能性という概念を提唱し、科学とは何かを示した。反証されえない理論は科学ではないのだ。もし捕鯨の正当性が「文化」によって説明されたら、反証可能性はなくなる。反証可能性のないものは科学ではなく宗教だ。確かに、社会では宗教を根拠にすることもありうるし、実際にそのようなときが多い。しかし、そのときは宗教という次元で話していることになる。

2012年7月12日木曜日

【評】CD売上枚数の性格

 テレビやラジオの音楽番組で、CD売上ランキングをよく紹介している。アーティストが初めてオリコン1位になったり、連続1位記録を更新したりすれば、朝の番組で報道される。100万枚売れば、テレビ・雑誌で見ない日はなくなる・・・。CD売上枚数に関する情報は私達の周りにあふれている。そして、私たちは、CDの売上枚数をアーティストの人気バロメーターとして捉えている。
 近年、CD業界は縮小し続けている。日本レコード協会によると、CD市場は、全盛期の1998年には6074億円だったのが、2011年には2818億円と半分以下になった。13年連続で、前年を割っている。なぜならば、消費者がCDを買う必要がなくなったからである。CDを買わなくても、レンタルする、もしくはネットでダウンロードすれば音楽を聞くことができる。どちらもCDより安価なので、それらを選ぶインセンティブは強くなる。さらに、違法ダウンロードも横行している。無料でネットから音楽を手に入れることができる。
 安価に、もしくは(違法だが)無料で手に入れられる音楽を、消費者がCDとして買うには、金額の差額分を埋める付加価値が必要となる。今のCD業界を見ていると、この差額を埋めることができている価値は2つある。1つ目は、消費者のCDに対する所有価値だ。好きなアーティストのCDは、部屋に置いておきたいものだ。2つ目は、CDに付く特典の付加価値だ。握手会やライブのチケット応募券などが付属されている。
 消費者は、レンタルやダウンロードすることに慣れてきており、所有価値のためCDを買うハードルが高くなってきている。所有価値でCDを買う人は少なくなり続けているのだ。それに対して、特典で高めた付加価値によって、売上を上昇させることには、アイドルが出すCDを筆頭に、成功するようになっている。
 すると、売上ランキング上位に入るアーティストの性格が変わってくる。特典で価値を高めたCDが、上位に入りやすくなる。また、CD購入層から流れ出た、レンタルやダウンロードでの楽曲購入は無視される。CD売上枚数は、楽曲の人気のバロメーターとしての性格は薄くなる。
 CD売上ランキングを、人気指標として捉えるのは正しくない。ランキングを見て、最近世間が受け入れる音楽は低レベルだ、という人がいる。これは違う。正しく人気を示すランキングではないからだ。世間の鏡になっていないのだ。人気のバロメーターとして、CD売上枚数を使う時代はもう終わったのだ。

2012年7月5日木曜日

【評】レバ刺しと大麻


 食品衛生法の規格基準が改正され、7月からレバ刺しの提供が禁止された。違反すれば、2年以下の懲役か200万円以下の罰金が科される。
 昨年、富山県の焼肉店でユッケを食べた5人の客が、食中毒にかかり死亡した。それを契機に、厚労省は食品衛生法の見直しについて議論を活発化させてきた。平成10年から、幼児や老人に対して生食を控えるように、各自治体に通知を出すなどの注意喚起を行なってきたものの、生食に対する管理の有効性について疑問符がついたのである。
しかし、今回、提供が禁止されるのはレバ刺しであり、ユッケではない。生食ではあるのだが、レバ刺しでの死亡事故の記録は残っていない。もちろん、レバ刺しを禁止にするのがおかしいということではない。死亡事故を起こるのを未然に防ぐという観点からの改正だからだ。ただ、犯罪とは何かを考えるきっかけとなった。
今まで犯罪でなかったことが、法改正の日を境に突然犯罪になる。法によって犯罪が作られる。今回も法改正により、レバ刺しを提供することが犯罪と化した。このような犯罪を作り出す法改正の議論は、日頃から盛んに行なわれている。最近、脱法ハーブの売買についての報道が多くされているが、これも新しい犯罪を作るべきだという議論だ。
法改正には、レバ刺しや脱法ハーブの件のように犯罪を作り出すことだけではなく、今まで犯罪だったことを改めることも考えられる。例えば、大麻吸引。世間はこの行為を犯罪として認知している。しかし、大麻は、たばこより毒性・依存性が低いことを示す論文が複数発表されている。たばこが合法であるならば、大麻が違法なのはおかしいと主張する人がいる。その主張に賛同するわけではないが、犯罪は絶対的なものではないことを知らされる。
法は絶対正しいものではない。よって、法に定められている犯罪も絶対的なものではない。このことを常に頭にいれながら、法律を見つめ続けることは重要である。

2012年7月1日日曜日

【評】個人レベルと集計レベル

 私は大学のゼミで、有権者の投票行動についての研究をしている。投票行動は何によって規定されているのかを、実証によって発見するのだが、あくまでも研究対象の単位は有権者だ。いわゆる、個人レベル(Individual-level)データのサーベイリサーチとなる。個々の有権者が起こす行動にスポットライトを当てる。
 それに対して、集計レベル(aggregate-level)での調査もある。例えば、都道府県ごとにデータを集計して投票行動を考えるとすると、集計レベルでの研究となる。私は、他大学との合同ゼミで、集計レベルでの調査をプレゼンしたことがあったのだが、他大学の教授から「集計レベルでの調査を行ったところで何の意味があるのか」と噛みつかれたことがあった。集計レベルで結果が出てもそれには意味がなく、また、その結果は個人レベルでの結果には関係がないので、個人レベルの調査をすべきだ、ということだ。
 集計レベルの調査によって、個人レベルの解釈をすることはできない。これは1950年に社会学者のW.S.Robinsonが生態学的誤謬(Ecological fallacy)という概念により説明している。(内容を知りたい方は各自調べてください。)
 ただ、集計レベルの結果が全く意味が無いというのには当時納得がいかなかった。感覚的には集計レベルの調査が無意味とは思えないのだ。まだそれを論証するまでには至らないが、1983年に政治学者G.Kramerindividualistic fallacy を提示し、個人レベルでの問題を指摘していることからも、集計レベルにも意義がありそうだ。
 個人レベルでの研究と集計レベルでの研究。この2大潮流の論争は絶えない。ただ言えることは、社会科学を学ぶ学生はこの問題と対峙すべきだ。この個人レベル、集計レベルの概念を知り、自分なりの考えを持つことは学生にとって不可欠なことだろう。